いつのまにか
このひとは 『鬼』と呼ばれるようになっていたけれど
でもほんとうは、鬼になろうとしても決してなりきれない
ただの『ヒト』だということを知っている
でも、いつか自分が必要とするのは
『人』としてのあのひとではなく『鬼』としてのあのひと、なのだ
鬼と泪
廊下からどかどかと荒っぽい足音が聞こえて、半分眠りの淵に居た沖田はこの部屋の主が戻って来たことを悟る。
そのほんの数秒後、がらりと障子戸の開く気配がし、沖田はぱちりと目を開いた。
「オイ、何やってんだテメー」
「あ、土方さん。お帰りなせえ」
予想通り。
開けた視界の先には、不機嫌そうな顔をしたこの部屋の主が立っている。
「何が『お帰り』だ。オラ退け、踏むぞコラ」
「わー暴力はんたーい」
「ウルセー。さっさと退け」
大股で部屋に入ってきた土方は、部屋の真ん中で大の字になっている沖田を足蹴にし、どっかりと机の前に腰を下ろす。
苛々とした様子を隠そうともせず、土方は横目で沖田を見やってから煙草を取り出し火を点けた。
其の侭無言で手にしていた書類に目を落とす。
(あれま、ご機嫌斜めだこって)
やれやれ、といった気分で沖田はゆっくりと上体を起こした。
沖田からすれば土方は元々些細な事で怒り不機嫌になる人物だが、こちら側に大して思い当たる非も無いのに当たられるのは面倒だ。
顔を上げた途端、紫煙が鼻先を掠め僅かに眉を顰める。この上司のお陰で慣れているとはいえ、もともと沖田はあまり煙草の煙は好きではない。
「つかお前、なんで俺の部屋に居んの?」
「ああ、そりゃ一人で部屋に篭って黙々と仕事する副長殿が寂しくねえようにって、可愛い部下の心遣いって奴でさァ」
「嘘吐け。ただのサボりだろーが」
「うっわ、酷えなあ」
沖田は土方が紫煙をゆっくりとくゆらすのを眺めながら、この人はまたキツい煙草を吸う様になったなと思う。
(そういや何時から吸うようになったんだったかな、この人)
記憶は曖昧だが、確か江戸に来たばかりの頃は吸っていなかった筈だ。
真選組が結成されて、近藤は局長に、そして土方は副長にと任命されて、それから
いつのまにか
「んな難しい顔して、一体何の書類ですかィ?」
ひょっこりと、沖田は上体を乗り出して、土方の背中越しから素早く手の中にある紙切れを掠め取った。
そうして、紙上にある文字列にざっと視線を走らせる。
(あ、)
其処には、先日真選組内であった一件について書かれていた。
云わば報告書、だ。
「オイ、返せ」
土方は渋面を作るとそれを引っ手繰るように沖田から奪い返す。
より苛つきが増したかのように、やや乱暴に短くなった煙草を灰皿に押し付けてから沖田を睨み付けた。
沖田は他の隊士なら震え上がるような睨みを軽く流しながら、土方の機嫌の悪さの理由に思い当たり合点が行った。
(成程。道理で機嫌が良くねえ筈だィ)
先日の『一件』。
平隊士の一人が真選組から脱走を試みたのだ。
沖田はその件についての詳しい内情を知らない、というより聞いた筈なのだが細かい事は既に忘れてしまっていた。
どのような事情が在れ、脱走した者は『切腹』という法度が真選組には存在している。当然、その隊士に対してもその法度は変わりなく働く、否『働いた』と言うべきか。
変わることがない、つまり細かい事情など知ったところでどうにかなるというものではないのだ。ならばいっそ、端から事情など知らない方が余計な事を考えなくて済むと沖田は思う。尤も、だから忘れたのだが。
朧気な記憶では、人道的に見ればそれなりに同情の余地のあるような事情があったようにも思う。確か他の平隊士達が処分の軽減を土方に願い出ていたからだ。
それでも、土方はその嘆願を却下した。
どのような理由があっても決まりは決まり、覆す事は在りえない、と。
「お前、仕事の邪魔すんなら出てけ」
「だって、暇なんでさァ」
「『だって』じゃねえ。大体お前どの面下げて暇とか抜かしてやがる」
「この面」
「−本当口の減らねえ餓鬼だな」
「俺、今日もう勤務時間外ですから。何処で何してようと自由な筈じゃないですかィ」
「俺の部屋じゃなければな」
「冷てえの。なんならお手伝いでもしやしょうか?副長殿」
「…いい。余計な仕事増やされちゃ堪んねえからな」
「失礼なお人でさァ」
普段は嫌がっても手伝えって煩いくせに
こういう、厭な仕事の後処理は極力他人にはやらせようとしないのだ。沖田にも、近藤にすらも。
土方はすべてを自分ひとりで抱え込んで、どうにかしようとする。例え自分を厭われ役としてもだ。否、寧ろ進んでそうあろうとしている。
(…ほんっと不器用なお人だなィ、今更だけど)
「んーじゃお言葉に甘えて、俺は休んでまさァ。此処で」
ひとつ、息をつくと沖田は土方と背中合わせの格好になるような形で座り直した。
土方は今度は特に咎める事はせず、新しい煙草を取り出し火を点けた。ふう、とまた紫煙が立ち上る。
「静かにしてろ」
「へーい」
合わせた背中から、土方が書類に万年筆を走らせる僅かな振動が伝わってくる。
心なしか動きが速い、気がする。
其れはまるで、其の侭土方の苛立ちや他の感情を表してるようだと思った。
結局のところ
『鬼の副長』なんて呼ばれ恐れられるようになった今でも、土方自身心の何処かでは割り切れてなどいないのだろうと沖田は思う。
もしかしたら本人にすら既に知覚出来てないくらいのところで、なのかもしれないが。
割り切れてる、という次元で考えればきっと沖田の方が格段にそうだろうという自覚が有る。
大体がこの『真選組』という組織に入った段階で、己の命と身の安全については相応の覚悟はしていて然るべきなのだ。隊規に背かずとも何時任務で命を落とすこともあるやもしれない。
しかし其れは当然だろう。自分達はこの時世に帯刀し『武士』として生きることを許されてる、云わば選ばれた身。その恩恵を受けながら、それでいて安穏とした結末を迎えたいなんて、あまりにも虫が良すぎる話ではないか、と。
(−て、そんな風に考えられてたら、苦労しねえよな)
時には非情となり、敵でも仲間ですらも切り捨てる存在。
それが『鬼の』副長。
規律に厳しく隊規に背いた者は容赦なく罰するし、必要に迫られれば、組の為に隊士を切り捨てる事もある。
沖田はその件に関しては、土方が間違ってるとは思わないし、他の誰も決してそう言わない。まして責める事など出来やしない筈だ。その度辛い顔をする近藤でも、だ。
甘い感傷や馴れ合い染みた感情だけでは到底生きては行けないような、そんなところに自分達は居るのだから。
規律を律する者も下す者も、其れは自分達の組織には必要な存在であって、そして恐らく他の誰にも出来る事ではない。土方を恐れながらも、誰もがその事も分かっているのだ。
だからこそ、土方は自分がそうあることを選んだのだろうけど。
(自分だって、んな器用でも無え癖に、なあ)
ゆっくりと、部屋に充満していく紫煙を眺めながら静かだ、と思う。
言葉は無く、触れる背中から伝わって来るのは、土方からの僅かな振動と体温。
そしてその中に混じる、僅かな感情。
「ねえ、土方さん」
「なんだ」
ああ、この人は矢張りただの『ひと』なのだろうと沖田は頭の片隅で思った。
でも
「もし俺になにかあったら、そん時ァ俺のこと切り棄てて下さいよ」
「…」
ぴたりと伝わる振動が途絶え、土方の手の動きが止まったのが分かる。
自分はきっと今ひどく残酷な事を言ってるのだろうと思いながら、それでも沖田は淡々と言葉を続けた。
「アンタに言っときます。近藤さんにそうしてくれって言ったって、どうせ無理でしょうから」
「…だろうな」
「ええ」
短い言葉。
そんな事は言うまでも無く分かりきっていること。
近藤は例え自らが傷付く事になったとしても、部下を、仲間を切り捨てる事など決して出来ない。必要であったとしても割り切ることなど絶対に出来ない。
そんな人だからこそ隊士達は皆近藤を慕い、ついて来ている。それは沖田も土方も変わらない。
そして近藤は其れが出来る人間じゃないからこそ、土方という存在がより必要なのだ。
『鬼』と呼ばれる道を自ら選ぶ、その存在が。
「でも、アンタには出来るでしょう?ていうか、して貰わなきゃ困るんです。近藤さんに出来ねえことは、アンタにして貰わなきゃ」
いつかくるかもしれない、こないかもしれない『もしも』の時。
その時、近藤や組の足手纏いになるのも、まして同情されるのも御免だと沖田は思う。
いや、少し違う。
「…じゃなきゃ、アンタを生かしておいてる意味が無いじゃないですか」
同情するのなら、してくれるというのなら、その時は切り捨てる選択をしてくれることを沖田は望んでいるのだ。
そしてそれをしてくれるであろう人は、ただ一人しか居ないのも、知っている。
自らを敢えて鬼としようとする、この人しか。
「安心して下せェ。もしアンタになにかあったときは、迷わず俺もそうしやすから」
努めてなんでもないことのように言う沖田の言葉に、土方からの応えは無い。
無言の侭、ただゆっくりと紫煙を吐き出した。
「土方さん」
この人は
鬼になろうとしても、決して鬼にはなりきれないヒトだ
何処かで人であることを捨てられない、どんなに思ってもきっとそれは変えられない。
「ねえ、それなら公平でしょう?」
それでも、そのひとに鬼になれと
所詮ヒトであると知っていて、尚この人にそれを望む自分の方が本当は鬼に近いところにいると、沖田は思う。
逃げ道など与えることなく、そのようにあれと
気付かない振りをして、ただひたすらそれを望み、選ばせようとする自分の方が、余程。
(『もしも』の時は、アンタが俺を。そして俺がアンタを)
2006.12.03
予定よりだいぶんダラダラ長くなってしまい…!
ひっどい沖田とそれにぶん回される土方という構図が大好きで(酷)
随分土方に対して素直に評価の高い、物分りのいい総悟になった感じです。『其の手に』とは全く相反する思考。
土沖というよりむしろ沖土?メンタル沖土萌(わー)。
ぶっちゃけヘタレ攻が大好物です。