夜明け前の江戸の町を歩く二つの影。
闇に同化する鴉色と対照的に仄明るく煌めく蜂蜜色。その片方はふらりふらりと、どこか覚束無い足取りだ。
「あー畜生、怠い、眠てえ」
「ルセー、黙ってちゃっちゃと歩け」
半歩後ろでぶつくさ文句を言ってる蜂蜜色に、業とらしいくらいの渋面で鴉色は言う。
「そんな眠いんなら大人しく車待ってりゃ良かっただろーが」
「だって、さっきは車戻るの待つより歩いた方が早いって思ったんでさァ」
「なら今更文句言うな」
その言葉に唇を尖らせたが、それでも蜂蜜色の子供は口を噤んだ。
ざり、ざり、
ふたりぶんの足音だけが闇に響いて溶けていく。
静かだ。
東の空は既に白んで来ている。あと半刻もすれば完全に夜が明けるだろう。
土方は夜明け前の静寂と凜とした空気は好きだった。
だが今はそれを楽しむより、人目に付く前に早々に屯所に戻らねばと思う。
別に後ろ暗いところがあるわけではないが、帯刀し威圧的な黒の隊服を着用した、更には白いシャツとスカーフに点々と赤黒い染みを付けた姿を悪戯に衆目に晒すのはあまり賢明とは言えない。
直参になったとはいえ、実際の自分達は江戸の一般市民にはまだまだ得体の知れない物騒な集団だと囁かれ、お世話にも評判が良いと言えない事は充分自覚している。
「真っ直ぐ歩け。余計時間掛かるだろ」
「歩いてますぜー」
「歩けてねーよ」
傍らを見ればこどもの其れは酔っ払いの千鳥足、とまではいかないが足が地に着いていないような心許の無さだ。
ふわふわとして、何故か重さがまるで感じられない。
こんな緩みきった状態を攘夷派の連中にでも襲われたらどうするんだと土方は内心舌打ちする反面、仮にそうなったとしてもきっとこの子供には何の問題も無いのだろうとも思う。
どんなに怠惰でやる気の無い態度を見せていても、この子供は敵と看做した相手を前にし、一度剣を取ればがらりとその表情を変える。そしてそうなったら其処には一欠けらの迷いも躊躇いも無いのだ。
普段のだらけた姿と剣を取る時では全く別の回路が存在しているのではと思う程に、機械のように正確で切り替えが早い。
先刻だって恐らく自分の倍ちかくの人間を斬ったであろうに、今は何事も無かったように平然とした顔で、呑気に欠伸をしているというのだから。
普通は程度の差こそあれ、人を斬ったあとはある程度の精神の高揚があって不思議は無いというのに。
頼もしいと言うべきなのか、末恐ろしいというべきなのか。
少なくとも真の敵に回すべき相手ではないのだろう。
この子供は強くなった、周りにいる誰よりも。
ずっとむかし、自分を含む道場の大人たちに揶揄い混じりに竹刀を取り上げられ、半泣きで向かって来たり、自分から一本も取れないと向きになって幾度となく掛かって来たこともあったが、今となっては本当に遠い話だ。
「オイ、歩きながら寝るなよ」
「大丈夫でさァ」
怪しい足取りを見兼ねて投げた言葉に、律儀に返事を寄越しながらも子供は欠伸を噛み殺しているのが気配で分かる。
やや呆れながらも仕方無いな、とも思う。
先刻の討ち入りの為にここ数日自分は勿論彼もほぼ休みなしの出ずっぱり状態で、昨夜は一睡もしていないのだ。
まして身体の出来上っている大の大人の自分はともかく、どんなに大人以上に剣が秀でていても沖田は本当にまだ実年齢も身体的にも成長途中の子供なのだ。
こうなるなら先程、現場から近藤や負傷者を優先的に乗せて屯所に戻らせた車に、沖田も無理矢理乗せるべきだっただろうか。そうすれば今頃はとっくに屯所に着いている筈だし、後処理は一休みしてからさせても特に問題は無かったのだ。
そうでなければせめて歩いて戻ると言い出した沖田の提案を却下して、大人しく迎えの車を来させた方が良かったかもしれない。
そんな考えを一通り巡らせたあと、口角を上げて声を立てずに苦笑した。
近藤に付いて、武州の片田舎から江戸に出て来た時に、沖田を子供として扱うのは一切止めると、周囲の大人達と分け隔て無く一人前として接すると決めた筈で、当人もそれを望んでいる筈だというのに、気付けば無意識にこのように考え、接してしまっている。
やはり長年培った感覚というものは、そう簡単には消せないらしい。自分もそうだが向こうも、だ。
「総悟」
名前を呼んで、器用に歩きながらも既に半分別の世界へ旅立ちかけている子供の手を掴む。
「へあ?なんですかい土方さん」
手を掴まれた事で、俄かに覚醒したらしい沖田がぱちくりと目を瞬いた。
改めて目をやれば、まだ真新しく、見慣れぬ彼の漆黒の隊服は心なしか一回り大きいようで、着ているというより、何処か着られているような印象も受ける。
あちらこちらに点々と血の染みを付けながらも、可笑しい事にそう思うと妙に微笑ましくすら見えた。
「寝るなっつったろ」
「寝てませんぜ」
「どーだか」
反論の言葉は軽く往なして掴んだ手を引いて歩き出すと、嫌がって抵抗するかと思ったが、存外大人しく子供は従った。
睡魔の為に逆らうのも面倒なのかもしれない。
沖田の掌は、竹刀や木刀や丸太を持ち出来た荳が潰れた痕なのか、滑らかそうなこどもの容姿と反して、すっかりごつごつとして硬くなっていた。
もっとむかし、この手を取った時には柔くちいさな手だった筈が、いまは自分の手と寸分違わない。
「ほら、さっさと戻るぞ。近藤さんが待ってる」
「へーい」
そのことに年月の流れを感じ、柄にも無いと思いながらも土方は笑みを零す。
だけど、いつかそんな遠くない日に、引かれるこの手は誰の助けも必要としなくなるのだろうと、
足を進めながら頭の片隅で薄らと、でも確信めいた思いを覚えた。
夜気と子供
2007.06.20
真選組結成間もなく、の時期設定。
数年前に結成された組織のようなので、沖田さんは15歳くらいでしょうか(若!)。
たまには年上らしく余裕のある土方と、素直な末っ子属性総悟でほのぼの可愛く!が当初の目標。
(そもそもシチュエーションからして可愛くないので色々可笑しいことになってますよ!)