屯所から程近い寺の境内に、大きな欅の木が植わっている。
その大樹の中程よりやや上の、一降りの大枝。そこは江戸に来たばかりの頃からの気に入りの場所だ。
幾つだかは定かでないが、その量感から木は俺より年を食っているのは分かる。
年功序列なんて性分でもないけれど、そう思うと僅かながら敬いにも労いにも似た感情が湧くから不思議なものだ。
最近では江戸でも中心地に近ければ近い程、こんな立派な木には中々お目にかかれない。武州では大して珍しくも無かったっていうのに。
育ちの土地が土地だし、そのお陰か元来木登りは得手だ。
子供の頃よくそうしたように登って、気に入りの枝に腰掛け、大きな幹にもたれて江戸の町を眺めるのが好きだ。此処からだと、我が物顔で偉そうに江戸の地に聳え立つターミナルも良く見える。
深呼吸をひとつ。
気のせいだろうけど、地面よりちょっとばかり空に近い分、空気が綺麗に思える。それに爽やかだ。
実のところ正体はよく知らないが、巷で話によく聞くマイナスイオンとやらの効果なのかもしれない。
こうしていると少しだけ、蟠った気分も解れる気がする。
だけど
「総悟ォ!お前んな所で何やってんだァ!」
ああ、不粋な闖入者のお出ましだ。
よく聞き知った怒声が静寂を打ち破る。全く、場所も弁えずに馬鹿デカイ声を上げないで欲しい。
面倒な、という気分最高潮で、俺は声のした方には目もくれずに適当な返事を返した。
「あー…、どーもお疲れ様です副長殿ー」
「『お疲れ』じゃねえ!仕事中だろうがテメーは、フラフラしてんじゃねーよ!」
下を見ないでも、その怒気を孕んだ声だけで充分想像が付く。きっと土方さんは顔に青筋の一本二本立てているに違いない。
絶対このひと高血圧の気があるよな、マヨの所為か。
それにしてもなんだって此処にいるのが分かったのだろう。
特に秘密にしていたつもりも無いけど、この場所の事は誰にも話したことはなかった。
組の誰にも、土方さんは疎か近藤さんにもだ。俺が此処に来る時は大概が誰かと顔を合わすのが億劫に感じている時だから。もしかしたら山崎あたりにでも調べさせたのかもしれない。
比類無い地味さに比例しているのか、うちの監察方筆頭はあれでいて優秀だし、副長殿は副長殿で、いちいち人の事を嗅ぎ回ったり干渉するのが趣味なんじゃないのかと思える節がある。
「さっさと降りて来い!!」
嗚呼五月蝿い
ちくしょう、本当にめんどうくさい
呼び掛けに対し、まるで微動だにしない俺に焦れたらしい土方さんの声が響く。
その迫力に気圧されたのか、かさりと頭上の枝が揺れて小鳥が飛び立つ音がした。
命令形の副長殿のお言葉に従う気なんざ更々ないというように、俺は両脚を宙にぶらつかせる。その動作は土方さんをより苛つかせたようだ。何か怒鳴っている。
こんな態度を取ってたら、後で余計に面倒な事になるのは目に見えてるけれど、そんな事は別にどうだっていい。
土方さんからしたら、いっそ自分も此処によじ登って俺の首根っこを捕まえたい心境だろう。
流石に向こうは大の大人だし、俺は足場も悪い不安定なところに居るから早々してはこれないだろうが、でも俺の記憶じゃこの人も木登りは不得手では無かった筈だ。
下に陣取っている副長殿をなるべく視界に入れないようにと視線を彷徨わせる。割と高い。
以前なにかで、確実に落ちて死ぬには少なくとも十メートル以上の高さが必要だと読んだ記憶がある。試した事は無いので、真偽の程は定かではないが。
てっぺんまで登ればどうか分からないが、それでも此処は生憎とまだ十メートルは無いだろう。
とは言っても、落ちた時の打ち所によっては一メートルも十メートルも変わらなく死んでしまう可能性はあるのだ。
「ねえもし、こっから落っこちたら。やっぱ死んじまいますかねえ」
「は?」
漸く発した言葉に、怪訝な反応が反ってきた。まあ当然だろう。
相手は一瞬呆気に取られたようだけど、直ぐに気を取り直してもう一度声が飛んでくる。
「何くだらない事言ってんだ、いいから早く降りろ!」
くだらない、か。
確かにそうだ。
これで俺が今にも飛び降りそうな悲壮な雰囲気を醸し出しているなら洒落にならないのだろうが、そんな気も予定も今のところ全く無い。
それは土方さんにも分かるのだろうから、本気で取り合う気など毛頭無いのだろう。
そんな餓鬼の仮定形に過ぎない馬鹿な与太話に、多忙を極める我が真選組の副長殿は付き合う暇も気も、端からあるわけがないのだ。
「はァ。くだらねー、ですか」
自分でも感情が篭ってないな、と思える調子で淡々と言う。
それから下の人をはじめてまとも見れば、そこには怒りというより当惑とも困惑とも取れる微妙な顔をした副長殿。
こっからなら普段見下ろされてばかりの俺も、悠々アンタを見下ろす事が出来る。はは、なんとなくザマーミロ、だ。
「何だよ、さっきからお前なんか怒ってんのか?」
「いーえ」
たっぷり数拍の間を置いて否定の言葉を吐き出したけれど
怒ってる、と言われればたしかにそうなのかもしれない。
じゃあ何に腹を立ててるのかと問われれば、何にだろう。
この人と自分の立場の不公平さにか不遇さにか、それとも俺が持てない物をいくらも持っている嫉ましさか。でもそんなものは今にはじまったことじゃない。
だから、ちがう。
そんなことじゃなくて
「ねえ、試しに言ってみませんかぃ?落ちろって」
言いながら重心を傾けて、手前に身体を乗り出してみる。
それを見て、勿論本気だとは思ってないのだろうけれど、それでも土方さんは面食らって焦った顔をした。
『馬鹿かお前は!危ねえだろうが!』という声が飛んでくる。
その様子が少しばかり可笑しいし、それ以上に苛々する。
「なぁに慌ててんですかィ。なんも言われてねーのに、勝手に落ちたりしやせんよ」
自然と咽の奥から笑いが漏れた。
そして考える。
もし、今この人が心の底から本気で落ちろと命じだら、俺はきっと落ちるのだ
そう、この人にどうか死んでくれと、こころからそう請われれば、命じられらばきっと俺は死ねるのだろう。
その行為に意味も疑問も不審も抱かずに、当たり前にこの命を投げ出す事が出来てしまうに違いない
まるで天からの啓示を受けた狂信者のように、いっそ感動と感激すら覚えながら動くのだ。
これは妄想でも冗談でもない、確信だった。
そのことに俺は喜びなのか絶望なのか分からない、でも絶対的な差を覚えている
常日頃から、俺はこの人に罵詈雑言を吐いているし。呪いだけに留まらず銃火器刃物、獲物を問わず使用して隙あらば、虎視眈々とその命を狙っている。
だけれど、このひとはそんなんじゃ絶対死なないのも、本当は良く分かっている。
知っているのだ、俺にこのひとは殺せない
剣の腕前の問題じゃない、もっと別の根本的な部分でそう出来上がってしまっている。
だから今の比、じゃない世界中の負のエネルギーを凝縮したような強さで、ありったけの本気を篭めて俺が死ねと唱えたとしても、この人は死なないし、死ねない。
俺の言葉くらいでは、このひとは揺らぎはしない。
「−総悟?」
困惑の色を浮かべた声を無視し、大きく息を吐いてから空を仰ぎ見る。
嗚呼、なんてことだろう
このひとは自分を知らなさ過ぎる
俺にアンタはころせない
でも、アンタはその気になれば酷く簡単に、でも確実に俺をころせるということを
しらない のだ
「土方さん」
このひとは言わなければ一生それに気付かない
そしてきっと、教えたところで理解はできないだろう
別に土方さんに俺と同じ感覚を抱いていて欲しいとは思わない。大体そんなのはぞっとしない、気色悪いとさえ思う。
でも俺という人間を左右させていいのは姉上と近藤さんだけだった筈なのに、いつの間にかこのひともその中にちゃっかり含まれている。
理由なんてもう分からないけれど、なのに確実に俺の内側でそう決まってて。
その癖、当人はそれを夢にも思ってないだろうという事実には、物凄く腹が立った。
「アンタは、もうちょっと自分てモンを良く知っとくべきだと思いますぜ」
俺の言葉に、土方さんはとても不可解そうに眉間に皴を寄せるのが見える。
その表情になんだか酷く絶望的な気分に襲われ、俺はもう一度天を仰いだ。
(刃物も銃も毒薬もいらない)
(ただそのおもいとことばだけで、アンタはいとも簡単に俺の心の臓をとめられるのだ)
天の声、地を這う殉教者
2007.06.24
えーと、何が言いたかったんだろう(…)。
土方が認識している以上に沖田は土方に影響を受けるんだろうなという。
土方は他人に対してはきちんと認識出来てても自分の価値は見縊ってたりしそうだなと、
多分そんなん(あの、ごめんなさい…!)。