暦は既に秋になろうとしていたが、日が落ちても未だに随分と気温が高い。
 じったりと纏わりつく湿度の高い空気は、肺に吸い込むと反って息苦しい気すらする。



 じわじわ、じわじわ

 薄暗い一面、蝉が啼いている音だけがやけに耳に響く。宵の刻をとうに過ぎたというのに、其の音は一向に止む気配が無い。
 昼夜関係無く忙しないことだ、とも思うが、地に這い出て僅か七日の命と考えれば自然なのかもしれない。数年土の下で過ごしようやっとの時間が僅か七日となれば、惜しむ時間など有りはしないのかもしれない。

 耳障りだと呆と思うが、ただそう思うだけで能面のように眉根ひとつ動かない。



 夏は、生と死が交差する季節だ。






夏季熱






「総悟」



 ぼんやりと彼方の蝉の啼き声に意識を飛ばしていたら、背後から低く名を呼ばれた。
 姿を見ずともその低音で誰だか分かったが、ゆるりと振り向く。


「また派手にやったな」

「そうですかィ」


 何のことだと思いつつも、適当に相槌を返す。
 視線の先には予想と違わず瞳孔開いた上司が呆れと、恐らく当人は気付いて無いであろう僅かばかりの嫌悪に似た響きと色を滲ませた表情で立っていた。
 表情を変えない侭此方に歩み寄って来る足元からびちゃりと水音がする。

 最近雨も碌に降っていないのにあんなところに水溜りなんてあっただろうか、と思う。



 違う
 薄暗くて見えないがきっと其れは血溜りだ。


 ぼんやり自分の置かれている状況を思い出し、足元に転がるぴくりとも動かない無数の塊を眺め遣る。気が付けば身体は暑さの所為だけではなくべったりと濡れていた。薄闇で分からないが、漆黒の隊服はじっとりと濡れて重く、厭に嗅ぎ慣れた錆びた金属臭が鼻腔を突いた。
 眉間に皺を寄せた黒髪の上司は己の首元のスカーフを外し投げて寄越すと、一言『拭け』とだけ言った。

 そんな事は別にどうでもいいような気がしたが、逆らう気も起こらずのろのろと顔を拭う。
 白い布が、宵闇の中も黒々とした色に染まったのが見えた。


「お前、返り血くらい避けられるだろうが。何でそうしねえ」



 返り血という言葉に呆とした意識が形を成した。
 そうだ此れは血で、そして自分の物ではなくて他人のもの。今足元に転がっている幾多の塊から噴き出し、流れたものだ。

 斬り合いのあと
 流された夥しい血

 誰がそうしたか、ああ自分がそうしたのだ。



 じわじわ、じわじわと何処かで蝉が啼いている。



「ああ…。なんか、面倒なんで」


 別に気にならねえし洗濯すんの俺じゃねえもん、と呟くと苦々しく舌打ちが返された。
 そんなに厭に忌々しそうにされる程(恐らく向こうは気付いてないだろうが)自分は酷い格好をしているのだろうか。
 自分の姿など見えないから分かりはしない。他人の眼にはどう映っているのか知らないが、そんなことはどうでも良い事だと思えた。


「スイマセン。ぜんぶ殺っちまったのは拙かったですかね」

「そういう事言ってんじゃねえよ」

「…はァ」


 目の前の上司は酷く苛ついている。
 機嫌が悪いというよりは其の声には焦燥が滲んでいた。

 こうするようになってはじめの頃こそ気分の良いものでは無くて、更に幕府から支給されたあたらしい隊服を汚すのが気が引けてそうしていたような気もするが、何時の間にかすっかり忘れ去っていた。
 そんなことを気にするより先に、より先にひとりでも多く敵を斬る方が余程重要視すべきことだと、意識に上らせるより前に思うようになっていた。
 其れが一体何時からだったかももう分からない。
 息をするのとおなじ感覚でひとを斬り、血に塗れる。

 それはもしかしたら望んで尚


「ま、細かい事ァいいじゃねーですかィ。ウチの隊服って黒いからあんま目立ちませんて」

 言葉を吐き出すと同時に無意識に唇が歪んだ笑いを形作ったのが分かる。
 こんな物言いをしても、目の前の男にとっては何の気休めにも為らず寧ろ余計に苛立たせ嫌悪されるのも薄々分かっていた。現に眉間の皺が一層深く刻まれ、只でさえ刃の如き鋭い双眸が眇められる。
 だが他に言う事も無かった。態々気休めの言葉を探すのすら億劫だと思う。回りくどい、上司が言いたい事も懸念している事も決してそんな事ではないのが朧ながらも分かっているが、其れを汲み取る気はまるで起こらない。

 別に血に塗れることが心地良い訳ではない筈なのだけれど、だからといって最早嫌悪すべきものでもなくなっているのだ。いつから

 ああ、今更遅いのだ




「あつい、ですね」



 ぽつり、呟く。

 自分の生まれた季節も今とおなじ夏の頃だが、なのにこの季節は苦手だ。好きになれない。どうしてか其れは昔からだったが、此処数年で更に強固になったように思う。
 じわじわととおくで蝉が啼く音に共鳴して、ぐわんぐわんと頭の鳴るような感覚をおぼえた。

 ぐらりと不意に地面が歪んだように感じた。


「どうした?」

「いや、ちっと血の臭いに酔っただけでさァ」

 よろける身体を支える為に訝しげに覗き込んでくる男の袖口をふらふらと掴む、その所為でべたりと彼の隊服にも血糊がへばり付いた感触がした。
 ああすいませんアンタのまで汚しちまったと呟いたら、馬鹿と言われて其の侭引き寄せて支えられた。その固い掌の感覚に不意に安堵に似た感覚を覚える。



 夏は好きになれない。

 この時季はいろいろなものの境目が曖昧で不明瞭だ。
 此岸と彼岸、生者と死者の間すら入り混じる。

 この身体を塗らす血も他人のものか自分のものか、今支えられて立っているのは自分なのか違うのか。
 ほんとうは自分は既に足元に転がっている塊のひとつに成り果てているのではないか。

 先刻から酷く耳障りなこの音は、蝉などではなくあちらから自分を呼ぶ声なのではないか



「車呼んであるから、戻るぞ」


 曖昧になる思考を遮るように寄越された言葉に、ゆらりと顔をあげて頷いた。
 射抜くような黒い双眸と支える腕の感覚を懸命に追う。



(ああ、俺がいるのは、まだ)






 けして飲み込まれぬように、どうか







2007.11.05






そろそろ冬になろうという時期に何故夏話…!(痛)
なんとなく『逢魔の』の続きのような、更に先の話のような感じです。