視界の隅に馴染んだ色を見付け、屯所の廊下を足早に進んでいた土方はふと歩を緩めた。


 視線の先へと気を逸らした所為で、手にしていた大量の書類が落ちそうになり、慌てて体勢を立て直す。
 暫くの間屯所を空けていた所為で、恐ろしく仕事が溜まっていた。


 其れだけでなく、先達て起きた組内の一連の騒動についての事後処理及び上への報告。そしてばらばらになってしまった各隊の再編成など。副長職に復帰した自分がせねば成らない事は山積みだった。
 その上こういう時に限って通常なら便利に補佐として使う山崎は負傷しており、未だに療養中だった。だが彼の療養が長引いてる原因に付いては、専ら自分にあるので其れを咎める事は出来ないのだが。

 煩わしい程の紙の束を抱え直し、もう一度目線を戻す。


 亜麻色、蜂蜜色、金茶色。

 様々に形容される、この国の人間にしてはかなり珍しいであろう毛色。それをを持つ者は大所帯のこの場所に於いても一人しか居ない。
 確か夜勤明けであり今は私服姿の彼は、人気の無い縁側にひとりぽつりと座っていた。



「そ」


 思わず名前を呼びかけて口を噤む。

 彼の名前を呼んで、そうして何を言おうというのか。そんな今まで考えた事も無いような事が頭を巡ったからだ。自然と足も止まる。
 然し気配に敏感な子供は其れだけでも充分に気付いたようで、此方を見ると『お疲れ様です』とだけ言った。
 耳慣れた饒舌さも減らず口も其処には一片も無く、聴き覚えの無い程淡々とした声に、土方は僅かに戸惑いながらも彼の方へ歩み寄った。


「傷はもう、いいのか?」

「ええ、お陰様でもうすっかり」


 暫しの戸惑いの後、結局口を付いて出たのはそれだけだった。相手からも一拍程間を置いて返される。
 先日爆破された列車の中で逢ったとき、確か彼は片腕を負傷していた筈だった。その事を細かく言及は出来なかったし当人も多くを言わなかったが、どうやらその時幾人もの隊士達を自らの意向で粛清した時に負った傷らしい。

 そして今更にも、職に復帰してから仕事の件を除けばあの列車の一件からまともに彼と会話らしい会話をしていなかった事に気付く。


「こう見えても根っから頑丈に出来てますんで、もうなんともありやせんよ。御心配無く」
「そうか。ならいいが」


 その言葉に彼の上腕部に目を遣るが、着物の上からではどんな様子なのかは図りかねた。
 言葉通りもう異常は無いのか、単に其れを巧妙に隠しているのか。厄介な事に沖田の考えてる事は自分には図り知れず、理解もし兼ねる事が殆どで。
 其れは先日の一件でも、改めて思い知った事だった。

 良く知っていると、理解していると思っていた。何時までも世話の焼ける、手の掛かる子供だと。然しそう思っていたのは自分の思い込みと思い上がりに他ならなかったのではないかと。
 情けなくらしくなくも、そう思わずにいられない程に。

 今もやけにぎこちない、不自然な間と緊張感が漂っている。
 此れは自分が組を離れる以前は決して感じなかったものだった。息苦しいような居心地の悪さ、とでも言えば良いのだろうか。


「アンタこそあっちこっち怪我してたみてーじゃないですかィ。それこそどうなんで?」
「あんなもん掠り傷だ。何ともねェ」
「そうですか。そりゃあ結構な事です」

 言って、ふいと目線を逸らされた。
 その目線の先を追うと、沖田の足元には数匹の猫が纏わりついていた。何れも首輪の様なものは付けて居らず、毛並みもあまり小奇麗とも言えない姿だ。

「なんだそいつら、野良か?」
「ええ多分。どうもね、こいつらに餌をやってた奴が居たモンで。まだこうやって来ちまうんですよ」

 沖田がゆったりとした動作で擦り寄る猫の喉元を撫でてやると、気持ち良いのかごろごろと喉を鳴らすのが聞こえた。沖田は特に動物が好きだった覚えもないが、それでも擦り寄る猫達は皆野良の割には随分と人に馴れている。
 『餌をやっていた』という人間が余程可愛がっていたのだろうか。


「…」


 誰が、とは訊かなかった。
 否、訊くまでもなかった。

 従順な猫達の様子を見ながら、あの男に動物を愛でる趣味などあったのかと思う。其れは酷く意外なようなそうでないような、如何ともし難い妙な心持がした。
 だが嫌に冷淡に今更そんな事を知っても、とも思うのだ。

 自分がこの手で斬った相手の事を、今更知ったとてどうにかなるものでも無い。
 向こうにどんな思惑や事情があったとて、起こってしまった事実は覆せない。


 不本意にも押し黙った侭の自分を矢張り子供は見ようともせず、くつりと何処か皮肉めいた声で哂った。
 其れは土方に対してか、それとも別のものに対して向けられたものかは分からなかった。



「さ、もう行きな。お前等に優しくしてくれる人間は此処にはもう居ねえんだ」


 もう一度、今度は軽く猫の頭を撫ぜてそっと促す。

 もう此処にはおっかない奴しか居ないからさァ、とやや間延びした口調で笑う高めの声だけが厭に耳にはっきりと届いた。


 果たしてその言葉の意味を理解したのか違うのか。猫の心理など解る筈も無かったが、心得たとばかりににゃあと中の一匹が一声啼くと、そろりと足音も立てずに一斉に離れてゆく。

 数歩離れてからぴたりと足を止め、振り返り猫達は此方を見た。光る眼と視線がかち合う。


 元より動物と馴染みがあった訳ではないが、改めて見た猫の其れらは黄金や青玉や翡翠にも似せた、美しいがまるで良く出来たつくりものような眼だと思った。

 そう感じるのはその眼から感情が読み取れない故か、或いは何の感情も篭っていない故なのか。



「土方さん」


 音も立てず、茂みの向こうに消えていく小さな姿を見送ったあと、漸く子供は土方を見た。



「これで元通りなんですかねェ、全部」

「−」



 何を言えば良いのか。
 自分に訊ねてくる『元』とは何から何までのことなのか。


 沖田が自分に望む答えが図り知れず、土方は黙った侭その眼を見詰め返す事しか出来なかった。




 只、じっと見詰めてくる琥珀のような色をした沖田の眼が、先程の猫達の其れと同じように酷く美しいつくりものめいて映った。








無機質な瞳





2008.01.12







動乱編直後の二人。随分前にオフで出そうとして頓挫したものの焼き直し。
別に鴨沖とか土鴨とかそういう訳ではありません。
伊東に対する沖田や土方の感情というのが、動乱編終結した今でも私は未だに図り知れないのです…。