ばいばい、また明日ね


 そんな挨拶を交わす頃、夢中で遊んで気付けば辺りはすっかり綺麗な橙色に染まる時間になっていた。
 やわらかい光の中、家迄の短い道を私は傘をさして歩く。川沿いの道を通る。ちゃんと舗装されてないから,足元は石や砂利ででこぼこしてる。
 ふんわりとした空気が流れて、どこかの家から晩御飯らしい良い匂いも漂って来た。

「お腹空いたアルなー、定春」

 私の言葉に半歩後ろを歩く定春はひとつ鳴いて返事をくれる。首を捻って振り向けば、定春の真っ白な毛並みも橙色に染まっていた。
 下を見れば川の水面もすっかり橙色。早く帰らないと新八が煩いかも。銀ちゃんは自分も夜遊びしたりするからか、あまりそういうお小言は言わないけれど(自分が言っても説得力がないとちゃんと分かってるみたい)、新八は結構そういうのに煩い。『女の子が遅くまで外に居たら危ないでしょ』なんて言う。私のが新八よりよっぽど強いのに、矛盾している。
 煩いなあこのダメガネ、といつもつい悪態を吐いてしまうけど実のところそう言われるのは嫌いじゃない。煩いと思うのも本当だけど。

「早く帰ろ」

 ふんわり、相変わらずいい匂い。ぐうとお腹の虫が鳴る。どこかの晩御飯はカレーなんだな。家の晩御飯はなんだろうカレーだったらいいななんて、そんな事を考えるだけで自然と心が逸って足取りが速くなる。
 もう陽射しも随分弱くなっているから身体も楽で、なんだか嬉しくてくるくると手の中の傘を回した。

 誰かが待っていてくれる場所へのかえりみちは楽しいし、嬉しい。
 そんな上々な気分で歩いていたのに、ゆらりと前髪を揺らした風の中に違和感のあるにおいを感じて私は足を止める。




 血のにおい


 少し鼓動が逸る。
 自然と目が細まり、身体中の細胞が騒ぎ出す。
 落ち着かねば、と。深呼吸を一回。

 止めた足の先を見れば、このにおいの元凶が直ぐに分かった。見覚えがあり過ぎる男がひとり。相変わらず季節感の無い真っ黒な洋服を着ている。
 向こうは私に気付かないのか、自分の手と手にしている物をじっと眺めていた。何だろうか、私からは分からない。見詰める男の表情も橙の光に塗りつぶされてよく見えなかった。
 そのまま石像のように身動きひとつしない。近寄る事すら憚られる。でも私は男の横を通らなければ帰ることが出来なくて、なのに足は竦んだように止まったままだ。

 本当に男は私に気付いてないのだろうか。あの嫌に敏い男がそんなに一心に何を考えているのか、どうにも私には想像が付かなかった。
 そして暫くして、一体急に何を思ったのか、男は手にしていた何かを下の河原へ放り投げた。

 あ、と声を上げる間も無い。
 橙色の景色の中で、一瞬宙を舞った布のようなそれ、は一際朱く見えた。


 私はひゅっ、と息を飲む。どうしてかそれを見た瞬間、私の背にはぞくりと身震いが走ったのだ。
 そのまま理由も分からず、動けない私の後ろで定春が低く唸る。その唸り声で男はやっと私に気付いたようで、ビー玉みたいな丸いまなこが今日はじめて私を捉えた。

「何でィ、お前か」

 いつもながら妙な訛りの言葉使い。
 きらきら、橙と朱に彩られた風景の中で、男の髪が黄金色に光っている。

「お前、ケーサツの癖にポイ捨てなんかしてんじゃねーよ。この税金ドロボーが」

 ぞくぞく、背中を悪寒が抜けるようだ。
 ああ私の声はいま震えていないだろうかと不安になる。

「あァ、ありゃ風に飛ばされたんでィ。不可抗力」
「バレバレな嘘吐いてんじゃ無いネ」
「ハハ、もうどこ行っちまったか分かんねーしなァ、仕方無ェやな」

 ルールを率先して守らないとならない立場の人間の言うことか。男はちっとも悪びれた様子が無い。でも饒舌で不遜な男の態度に、知らず安心している私が居る。

 だってさっきのはあんまりにも可笑しい。まるで別人のようだ。
 そう言い切れる程私はこの男を知っている訳じゃなかったけれど、それでも。


「なんでお前こんな所に居るアルか」

 相変わらず芳る血のにおい。嫌な鼓動が止まらない。
 どくんどくん、まるで身体中が心臓になったようにやけに煩い。

「あん?それはこっちの台詞でィ」
「此処いらは私の縄張りネ」

 どうにか平気な顔をして一歩前へと足を踏み出せば、いやなにおいは一層濃さを増す。
 それは気のせいじゃなく、確かに目の前から。

 私が嫌悪してやまない、というより嫌悪しなければならない、私の本能に訴えかけてくるにおい。
 銀ちゃんからもたまに感じる事がある。でもそれはとても遠くて薄らいでいて、普段は甘ったるい砂糖菓子みたいな匂いに掻き消されていて分からないものだ。
 だけどこの男はいつもこう、濃厚で真新しいこのにおいをいつも身体中に纏わりつかせていた。
 この男だけじゃない、いっつも瞳孔開かせてる多串君や人の好さ以外に取り得が無いように思えるあのゴリラでさえ、この黒服連中には皆このにおいが染み付いている。
 だけどゴリラや多串君と決定的に違うのは、他の黒服達はどうにかそれを覆い隠そうとしているところがあるのに、この男には一片もそれが無いことだ。まるで自分の一部だと云わんばかりに平然としている。
 意識してるのかしていないのかは知らないし知りたくもないけど、その事が只でさえ感じるこの男に対する嫌悪感と敵対心に、より一層拍車をかけているのかもしれなかった。


「目障りアル、とっとと退けよコノヤロー」
「何偉そうに言ってやがる、此処は天下の公道だぜィ。テメーにそんなこと言われる筋合いねェや」

 動揺を押し殺すために、吐く必要の無い悪態が口を突いて出るが、男も負けず切り返す。
 人の事が言えた義理じゃないけど、すこし相手の言い草にむっとして目の前の相手を睨み付けながら傘を持つ手に力を込めた。
 だけどいつもならそれだけで乗ってくる筈の相手はひらりと手を翳しただけで、目を逸らす。

「生憎だけど今日は気が乗らねーんでね、さっさと行けよ」
「はん、私に臆したアルな」
「違ェよ、気分じゃねーの」

 普段ならお互い意識する前に衝突している筈の相手が、私に見向きもしようとしない事に幾分が気分を害されてつい挑発するような事を言ってしまう。
 でも何を言っても男の視線は逸らされたままで、私には向けられなかった。

 男は無言で川面を見詰めたまま。
 こうして突っ立ってても埒があかない。
 そもそも私がこんな奴を気にする必要など無いのだ、そう思い興味が無くなった振りをして、男の脇を通り抜ける為に足を進めた。

 血のにおいがする

 その、濃い血のにおいに混じって微かににおうほかの。
 このにおいを私は知っている。一体何の


 思考を巡り、この覚えのあるにおいの正体を探り当てたとき





 私は心底、ぞっとした。




「行かねェの?」
「…あ」


 男がゆっくり振り向いて私を見遣る。
 私は男の真後ろで立ち尽くしていた。


 ああ、ああなんてことだろう。



 気付いてしまった。本物の夜兎が纏うのは他人のそれ。今までこの男が纏わりつかせていたのもその筈で。
 でもいまは違う、この男が纏っているものは。




 男自身の血と、死のにおいだ。






 この男は、死に魅入られている。




「ー」



 気付いたその事実に俯きそうになって、でもそうすることはこの男から逃げている気がして。それはいけないこんな事で負けてたまるかと顔を上げて男の目を見た。橙色の逆光で目が眩む程まぶしいけど、それでも無理やり目を開いて目の前の男を見据えてやる。
 はじめて正面からちゃんと見たかもしれないその目は、懇願と少しの憐れみを湛えているような、そんな目だった。

 なんで、そんな目で見るの

「何アルか、その目」
「…何の話でィ」
「誤魔化すんじゃないネ、お前」

 言い掛けて口を噤む。
 この先は言ってはならない、何かに気付いたかなんて言ってはいけない。そんな気がした。
 男の目が無言で私の言葉を制している。
 
 男自身も気付いているのか。
 自分に纏わり付くものの正体と、そして私が気付いてしまったことに。


 ごぅんとどこかから鐘の音が聴こえた。
 毎日夕方、おなじ時間に近くのお寺で突いている鐘の音だ。かえらなくちゃと何処か上の空で思う。


「チャイナ」

 顔の筋肉が強張ってしまったのか、声を出すどころか、まばたきひとつ出来ずにいると声を掛けてきた。ああそれは私のことかと一瞬の間があってから気付く。
 そういえばこの男は一度も私の名前を呼んだ事が無い。
 まさか私の名前を知らない筈もないだろうけど、頑ななほど一度も口にしない。
 だけどそれはお互い様で、そういえば私もこの男の名前を呼んだ事など無かった。勿論私だってこの男の名前をちゃんと知ってはいたけれど。


「もう子供は家に帰る時間だぜィ」
「余計な世話アル、大体オメーもガキだろーが」
「は、俺はガキ以前にお巡りさんだからいいんでィ」

 一度開けば、お互い口だけは嫌によく回る。
 男の声だけはいつもみたいに馬鹿にしたような響きに似せられていたけど、陽に染まって紅くすら見える目はちっとも笑っていない。迂闊にもその目が綺麗だなんてほんの少し思ってしまったけど、それ以上に厭な感覚がぐるぐる身体中を廻って、ぎりりと胸が締め付けられてざわついた。
 笑わない目に何も言うなと、お前は何も気付いてなんていないんだと言い聞かせられているようで物凄く嫌だった。

「…お前」
「もう直ぐ暗くなりまさァ、ほらとっとと帰った帰った。遅くなると旦那が心配しやすぜ」


 私には皆まで言う事も許されない。
 目の前にいるくせにひらりと交わし、遠ざけられる。

 立ち尽くす後ろで定春が心配そうな声で鳴き、私の腰辺りに身体を擦り寄せてくれた。
 いつもと同じあたたかくて柔らかい感触に、私は酷く泣きたくなる。

 でも、きっとそれも許されないのだ。




 私に出来る最後の抵抗なんて、男に情けない顔を見られないように、急いでその場から駆け出す事しか残されてはいなかった。










緋色の香








2008.06.06





まだ病床に臥す前の沖田と神楽。
沖田目線からの話と対で完成する予定です。中途半端ですいません