ひたひたと、薄暗い廊下を進む。
日中騒々しい屯所も子の刻をとうに過ぎたこの時分は流石に静かだ。大半が床に就いてる頃合だから無理も無いだろう。
予定より遅くなってしまったと内心ぼやく。今日も朝から勤務予定だというのに、少々廓に長居をし過ぎてしまった。早々に就寝しなくては業務に差し支えるかもしれない。
風呂はいいとして、部屋に戻ったら先ず一服。そうしたら直ぐ寝ようと歩きながら考える。
自室へ続く廊下を曲がったところで、ぎくりとして声を上げそうになった。部屋の前に、白いなにかが鎮座している。
思わず足も止まった。
「何、してんだ」
「…」
驚きのせいで微妙に掠れた声。ついでにばくばくと心音も跳ね上がっている。
一瞬てっきり物の怪か幽霊かと半ば本気で思ったが、よくよく見れば相手は見覚えのある人間の子供だった。
正体が分かり安心して近寄るが、無言で相手はじっとこちらを凝視しているだけだ。だが急にすっくと立ち上がると首を伸ばすようにして顔を寄せ、ひとつ鼻を鳴らした。
「安っぽい匂い」
やっと出てきたのはあからさまな蔑みと嫌悪の響きを込めた言葉。その突飛で不躾な物言いに、腹を立てる前に困惑してしまう。
「は?」
「何処の女抱いて来たんだか」
きょろり、此方に向けられた琥珀色の眼差しが瞬いて暗闇のなか光って見えた。
まるで猫の目のようでもある。勿論相手はれっきとした人間なので、煌めいて見えるのは錯覚の筈で。だけど不覚にもそのつよい眼に内心たじろいだ。
周囲に人の気配は感じられないが、それでも夜中の廊下は思いの外声が響く。仮に誰かに聞かれても別段咎められる覚えは無いが、それでもあまり周囲に好き好んで聞かせる理由も無い。
「ほら、一旦部屋入れ」
突っ立った侭此の場から辞そうとしない相手に、仕方無いと土方は腕を掴んで自室に押し込みながら、後ろ手で戸を閉めた。
掴んだ白い夜着の感触がひやりと冷たかった。
「お前人の部屋ン前で何してたの?何か俺に用だったのか?」
先刻掴んだ夜着は随分と冷たかった。長い時間廊下に居たのでもなければ、ああはならないだろう。このところ夜は随分と肌寒くなった。その夜気と殆ど同じ冷たさだったのだから。
明かりを点けていない部屋は廊下以上に暗く、薄闇に慣れぬ目は未だ視界が効かない。それでも子供が自分を凝視しているのは気配で伝わった。
「総、」
「アンタ、どうせ抱くならもちっとマシな女抱いて来なせェよ。んなあからさまな匂いつけられるなんざ、莫迦じゃねーの」
呼び掛けを遮って出た言葉は、またも予想とは掛け離れた物だ。口調は忌々しげだが、一体何に対してそこまで噛み付いてくるのか分からない。
花街帰りの自分を汚い大人だと嘲ってでもいるのか。然し花街に行ったのは別段初めての事ではなく、相手とてそんな事は千万承知の筈。寧ろ揶揄いの種にしていた位なのだ。
「ね、そんなにいいんですかィ?玄人の女ってえのは」
どうやら自分に移っているらしい香を嗅ぐように、もうひとつ鼻を鳴らす。
それから酷く淡々と『ま、欲求不満の解消にはいいんでしょうけど』と平然と言う。
僅かに闇に慣れて来た眼で見ると、相手の表情も声色と同様淡々としていて掴み所が無い。年齢に酷く相応しくない発言と表情は今に始まったことでもないが、其れが今の土方には薄ら寒くすら感じる。
「餓鬼が何分かった風な一端の口効いてんだ」
「ああ、まさか本気で入れ揚げてる妓が居るってんじゃないでしょう?」
此方の言う事に耳を貸す気は更々ないらしい。相手の発言は先刻から全く会話になっていない。
「お前には関係無いだろ」
話の要領が掴めず、僅かに苛立ちを感じながら早々に切り上げようと土方が告げた言葉に、沖田は目をぱちぱちと瞬かせた。
「なに、言ってんです?だってアンタは俺のもんでしょうや」
だから聞いてやってんですよ、とまるで事の理を説くように躊躇い無くさらりと口にされた言葉に、土方は目を剥いた。
「な、に言っちゃってんのお前」
「なにアンタ、分かってなかったんですか?」
驚きと同等の焦りで、どもってしまった土方とは対照的に沖田は平然とした侭だ。表情すら碌に変わらない。
自分の言葉に可笑しいところなど一片も無いと言わんばかりの、憎らしいまでの涼しい顔。
馬鹿馬鹿しい、冗談は止せと一笑に伏そうとしても、冗談の気配を感じ取れず、返す言葉が詰まる。
「なんで」
「なんでってそんなの、ずっと前から決まってたんですよ?」
さも当然と言わんばかりの口調は変わらない。
薄闇の中で笑んだ気配が伝わった。
「姉上は、姉上の心はずっとアンタの物だった。でも、アンタは姉上のモノには成らなかったでしょう?」
するり、白い腕が伸びてくる。
滑らかな動作で貌をなぞられる感触。
「姉上ですらアンタをモノに出来なかったのに、其処ら等へんの安っぽい遊女になんざくれてやるわけにはいかねえんですよ。だから」
まるで道理の通らない。誰が聞いても可笑しいであろう事を言われているのにも関わらず、どうしてか反する言葉を返すことが出来ない。
きょろり、光って見える眼とかち合った。
「−」
ああ、猫のようだなどとんでもない。そんな可愛らしい物ではない。これは獲物を狙い済ます、もっと狂暴で危険ないきものに似ているのだ。
畏怖から来るものとはちがう、ぞくりとした感覚が身体を巡った。
「まァ、分かって無かったってんなら今は大目に見てやりまさァ。」
ふふ、と又薄闇に哂った気配。
浮かんでいるだろう表情を確かめる前に、首を伸ばしてきて肩口に顔を埋めたかと思うと、ちりりと熱い痛みが走った。弾かれたように慌てて身を離すと、にまりと相手が哂っている。
首筋に噛み付かれたのだ、と理解するのに僅かに間が空いた。
「お休みなさい、土方さん」
見覚えの無い笑みを張り付かせた侭、沖田は部屋を出て行った。
知った筈の子供がはじめて見せた類の哂いに、再び背中に身震いのような感触が走りぬけた。
噛み付かれた首筋が、痺れを伴って熱く痛んだ。
『終夜の理』
2008.08.28
限りなく沖土っぽい土沖です(なんだそれ)
私の手掛ける土方のヘタレ具合は手の施しようがないので諦めました。