胸を苦しくさせる微かな音が響く。
 いっそ耳を塞いでしまおうか。
 
 
 
 
 
 
 秋雨の名残
 
 
 
 
 
「なァ、今日って雨降ってンの?」
 
「いいえ?降ってませんよ」
 
 
 
 昼餉の後、時間が経った為に幾分か温くなった茶を口に運びながらぽつりと沖田が漏らした問いに、傍らで食器を片付けていた山崎は不思議そうな表情を向けた。
 
 
「今日は雨どころかいい天気ですよ、暖かいし」
「なんか寝てる時、雨の音が聴こえた気がしたんだけど」
「それなら風か葉擦れの音じゃないですかね」
 
 ここ数日はずっと良い天気続きですから、と山崎からは沖田の問いが全くの見当外れだった事を示す言葉が続けられる。
  
「そっか」 
「そうだ折角の陽気ですし、ちょっと空気を入れ替えましょうか」
 
 そう言って未だ納得しかねている表情の沖田を見遣りながら、山崎は立ち上がると閉じられていた庭側の障子戸を開く。彼のその動作とほぼ同時に、ふわりと緩い風を肌に感じる。
 
 室内の薄暗さにすっかり目が慣れていた沖田は、外から差し込んだ陽光に眩しさを覚え、両の目を眇めた。
 
  
  
「本当だ」
 
 
 青年の背中の向こう、開かれた障子戸の向こう側は柔らかな光が差していて明るい。それにとても暖かそうだ。
 こんなにも明るいのに、どうして雨が降っているなどと思ったのか。
 
 
「暖かいけど、やっぱりもう秋なんですね。ほら、葉がもう色付いて来てますよ」
 
 布団の上で上体を起こしただけの沖田からも、庭の木が見えるようにと配慮してか、山崎は身体を僅かに横に移動させる。
 見れば彼の言うとおり、庭の紅葉が薄らとではあるが色付いている。其れを見てもうそんな季節なのかと、沖田は時間が絶えず巡っているという、至極当然の事を改めて感じた。
 
 数月の間、殆ど部屋からも出る事無く一つところに篭っている為か時間の感覚が酷く希薄だ。まるで世の中と自分の時間が切り離されて存在しているような、掴み処の無い微妙な気分に陥りそうになる。
 
「この部屋からだと丁度あの紅葉の木が良く見えますから、もう少し経てばきっと綺麗ですよ。楽しみですね」
「そうだなァ」
 
 何処か茫然とした面持ちで庭を眺めている沖田を気遣ってか、山崎はそんな事を言う。だがどうにも沖田はその言葉にも気が入らない侭で、それでもどうにか相槌を打っていた。
 頭の片隅で沖田自身ああこれはどうもいけない、と他所事のように思うのだが、とはいえ、なら一体どうしたら良いのか分かる筈も無く、又考える気力も湧かなかった。
 
「あー、見頃になったらそうさな、紅葉を見ながら一杯と洒落込みてェもんだなァ」
「はは、いいですねそれ」
 
 上手い言葉が思いつかず、単に場繋ぎの為だけの尤もらしい事を口にしてみるが、別段本気ではない。只の空言でしかなかった。大体酒は随分と前から医師に摂取を禁じられていたし、それを抜きにしても今の沖田自身、特に口にしたいと思うものではなくなっていた。
 敏い目の前の相手も、そんな事は当然ながら百も承知しているのだろうが、それでもそんな事は知らない風にこうやって合わせ、会話をしてくれる。
 
「でも其の頃はもちっと冷え込むだろうから、燗を付けてェな」
「寒い時季は燗っていいですよね、温まるし」
「鍋も良いなァ。酒の銘は鬼嫁で、あァ勿論代金は副長持ちな」
 
 空言ばかりの、所謂場繋ぎの言葉の中で何の気無しに口にしていた人物の名に、沖田は僅かに口元が綻んだのを自覚した。
 特に意識しなくとも自然と口から出てしまう男の存在に、全く何てことだと自身に苦笑する。
 
 
 
「山崎、俺そろそろ寝っから。もう下がっていいぜ」
「はい」
「あ、其処はもう少し開けといてくれや」
 
 再び戸を閉めようとした山崎にそう告げる。彼は沖田の言葉通りに開けた侭にするべきか少し迷ったようだが、躊躇う背に天気も良いのだからいいだろうと言えば、確かにそうですねと頷いた。

「また後でお薬お持ちしますから」
「あの糞不味い薬な」
「ええ」
 
 
 沖田が床に横になるのをきちんと見届け、何かあったら呼んで下さいよと言い山崎は部屋を退出していった。
 
 気配が遠ざかるのを確認した後、沖田はゆっくり息を吐く。それから自然と目蓋を閉じた。
 静寂が戻って来たと思う間も無く、微かな音が耳に響く。

 頬に当たる感触から風が葉を鳴らしているのだと分かる。
 ただそれだけの事なのに、やけにそれが耳に付いた。
 さわさわと風と葉が擦れ合い鳴る音が、矢張り雨音のように思えて仕方ない。どうしてだろう。
 
 
 目を閉じている為に、今の沖田の視界は黒一色だった。その為か、夜闇の中ひとり雨の音を聞いているような錯覚を覚える。
 理由も分からず、只妙に心細く感じる。小さな子供に還ったような気分にも思え、それがとても嫌だと思う。

 何を心細く思う必要があるのか、だって目を開けばあんなに明るい筈なのだ。嫌なら目を開けばいいのだ、それだけのことだ。
 それに自分は呼べば直ぐに誰かが駆けつける処に居る。
 暗くてひとりで、だから心細いだなんて、本当に幼い子供染みた事だ。大体もうとっくに自分はそんな年ではないのだし、全く何もかも馬鹿馬鹿しい。
 
 
 なのに、どうして
 自分はこんなに



 目を開けば良い、そう思うのにそう出来ない。
 いっそ眠りに落ちれば何も分からなくなるだろうに、耳に届く音がそれを妨げる


 さわさわ、さわさわと

 音に導かれるように記憶を辿り、不意に思い出す。

 暗い夜、静寂の中で雨の音をひとり聴いた日を
 
 
 
 姉が逝った季節も秋で、その日はずっと雨が降り続いていて。
 
 彼女は最期まで自分を優しく呼び、昔と変わらず微笑ってくれていて。
 その微笑って触れてくれた彼女の手が、はたりと力を無くして落ちていった瞬間、自分を襲った幾多の感情と。
 
 自分には為す術も無く、やさしい手が確実にあたたかさを失っていくという容赦無い現実に覚えた心細さを
  
 いくら呼んでも、もう決して自分の名を応えてはくれない声を


 静かな部屋で、ひとり  
 
 
 
(…姉上?)
 
 さわさわと、あの日のように胸をざわめかせる音の向こう、鈴を転がすような心地よい声で自分の名を呼び笑い掛ける、甘やかな懐かしい人の声を聴いた気がした。
 









2009.01.21(一部加筆・修正03.28)







ミツバ編の雨シーンと紅葉のイメージはアニメ版独特の演出でしたが凄く好きです。

この連作も回を重ねるごとに、沖田が別の意味で病んできてる気がしました。
別にそういう意図は無いんですけども。