ほんとうは知ってたんだ
 貴方の手が いつも其処にあることを




 どんな時でも 黙って伸ばされていた 手





其の手に 弐





 風が冷たくなってきた。
 東の空はもう藍色がかっているから、直に暗くなるだろう。

「…寒」

 ぶるりと風に身を疎ませる。
 何も考えずに屯所を出てきたから、当然羽織るものも何も持ち合わせていない。

 ああ戻らないと、とまた思う。


 どうしようか

 どうもこうも有りはしない。
 もう俺の戻るところはあそこしか無いんだから。
 そんな事は考えるまでもなく分かりきってることで、だからそう、戻ればいいんだ。
 きっと皆待っている。近藤さんも山崎も、原田さんや斉藤さんや永倉さんや、そう、皆みんな待ってくれている筈だ。
 分かっているのに、どうしてだろう
 かえりたくないなんて、戻ってもどうしたらいいか分からないなんて。

 なにか

 なにかが、俺の中でぱきりと、欠けてしまったんだろうか。
 だけど、どうすれば其れが埋められるのかが俺には分からない
 なにが欠けてしまったのかすら分からないんだから

「…戻らないと、なァ」

 俺はゆっくり、ひどく緩慢な動作で立ち上がった。なんだか身体が酷く重たくて仕方ない。
 そうしてのろのろと土手に向う為に、歩き出そうとした。

 そこで気付く。誰かが此方を見ていることに。
 誰かが、土手へ上がる階段のある橋の袂に立っている。
 其れは真黒い髪と、同じくらい真黒い強いまなざしの持ち主で、たぶん今、俺が一番会いたくなかった人、だった。

 足を止めたい気分に駆られたけど、今更それも出来なくて、半ば諦めの気分で、でも嫌々のろのろとした速度で其方へ足を進めた。


「総悟」
「…」


 俺の名前を呼ぶ低い声が聞こえて、俺は今度こそぴたりと足を止めてしまった。
 何か言わないとと思うのに、おかしくなっちまったのか、俺の口からはひゅう、と息をする音が出るだけで肝心の声が出てくれない。
 コトリ、と松葉杖をつく音がきこえた。
 この人はつい先日の捕物で足を負傷している。その怪我はそんな数日で完治するようなモンじゃないのに、足元も覚束ないような状態な癖に、どうして分かったのか此処に、俺の所に来たんだ。
 馬鹿じゃねェの
 放っておけばいいのに、どうして
 だってアンタは俺のことなんか知らないってどうでもいいって、そう言った筈じゃないか。
 
 なのに どうして

 どうしてこの人は、いつもこんなにも,
 こうして 俺の傍らに立っていようとしてくれる
 手を伸ばせば届く距離に いつだって居てくれようとするんだろう。
 はじめてじゃないんだ
 本当は知ってた。いつもこのひとは俺の傍らに居て、何度も其の手は黙って俺に伸ばされてて、でも俺はそれに気付かない振りをしてた
 だって見たくなかった そんなの知りたくなかったから

 そんなの、俺は望んでないのに




「なにしに、来たんですかィ」

 やっと出す事が出来た声は自分でも驚くくらい掠れていて。情けないと思ったけど、どうしようも出来なくて、俺は自然と目の前のひとから目を逸らしていた。

「そんな足でわざわざ説教にでも来たってんですかィ、ご苦労なこった」

 自分が今どんな表情をしているのか考えるのも嫌で仕方ない。見ることは出来ないけどきっとすごく情けない顔をしている。
 そんな顔、誰にも見られたくない、誰よりもせめてこのひとにだけは絶対に見られたくないのに。
 夕日のせいで俺には土方さんの表情はよく見えないから、俺の表情も見えてなければいいのにと思う

「もう日が暮れる、戻れ」
「は、そりゃ命令ですかィ副長殿」

 自分でも分かる位に声が震えている。
 ああ違う、これは寒いからだ。だから声が震えてるんだ、大したことじゃない。
 大したことじゃない。だけどやっぱり目の前の人にそれを気取られるのが嫌で、顔を上げることが出来ない侭、まるで俺は金縛りにでもあったみたいに、身体が動かせないでいた。
 ことりことり、松葉杖を突く音。目の前の人はゆっくりと、でも確実に俺に近づいてくる。いっその事、この場から逃げ出してしまいたいような気分になる。


「…帰るぞ、近藤さんが心配する」

 そのまま黙り込んでぴくりとも動けないでいる俺に、目の前のひとは静かにそう言うと、手が伸ばされた。
 すこし顔を上げると、伸ばされた指先が見えた。
 この人の手は指が長くて綺麗な形をしている、と思う。


 ああそうだ
 俺はあのとき、この人に 姉上の手を取って欲しかったんだ
 俺なんかにじゃなくて 姉上に手を伸ばして欲しかったんだ

 だってこのひとなら 姉上をきっとまもれた
 しあわせに できたんだ
 俺にはできなかったのに
 でもきっとこのひとには それができたのに


 それでもこの人は其の手を 姉上には伸ばさなかった
 なのにどうして 今更俺には 其の手を伸ばす




 俺は そんなの要らない


「総悟」
「−…っ」

 また名前を呼ばれて、今度はびくりと身体が竦む。
 そしてそのまま動けずに、ただ差し出された手を黙って見つめてる俺に焦れたのか、其の手は俺の腕を掴んで引き寄せた。
 そのほんの一瞬、真黒な目と視線がかち合って、その眼の強さが酷く俺を惨めな気分にさせた。


 ああ、嫌だ
 いやだ 俺を見るな



「…放して、下せェ」


 自分でも耳を塞ぎたくなるような、掠れた、情けない声で俺は拒絶の言葉を吐き出した。
 その侭、目の前の人の顔も見れずに掴まれた手を振り払う。
 手の主は、なにも言わない


 ずっと、何度も伸ばされていた 手

 知っていた、けど悔しかったんだ
 其の手を取ってしまったら、其れを認めてしまったら自分がどうしようも無い無力な餓鬼だって認めなければならない気がして。

 そんなことない
 俺はもう子供じゃないんだから、アンタの手なんて必要ないんだって
 そう意地を張って、ずっと突っ撥ねて見ないフリをしていた。
 このひとが 何も言わないのをいい事に ずっと

 そう、この人は悪くないんだ
 姉上だってそんなの分かってた 誰のことも恨んでなんてなかった
 しあわせだって言ってくれたんだ
 だから本当は、こんなに苦しいのも妬ましいのも、そんなのはぜんぶ俺の我侭だって、ちゃんと分かってる
 分かってるけど 

 でもどうしたらいい?
 如何したら この苦しさから逃れられるんだろう。欠けてしまったなにかを 埋められるんだろう。


「ひじかた、さん」


 ちいさく、目の前のひとの名前を呟く。
 まるで俺の声じゃないみたいだけど、でも此れは俺の声だ。
 目の前の人は黙っている



 お願いだから 何か 言って

 お前なんか知らないと、どうでもいいんだと、ただ一言を それだけを





  →其の参




2006.11.20





 スイマセンまだ終わりませんでし…た(爆)。
 土方さんがやっと出せたものの、全然喋りもしないし相変わらず総悟は別人ですね!(…)
 (ていうか女々しいにも程がある状態に)。挙句まるで痴話喧嘩みたいなノリになってきてもう…。
 あの…もう暫く広いお心でお付き合い下さると幸いです…。